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箱根西麓野菜情報

箱根西麓とは

箱根西麓地域とは箱根山の西側斜面地域(三島坂地区周辺から田方郡函南町周辺)を示すとされています。

箱根山の西側斜面に広がる畑地は、排水がよく、膨軟で物理性に優れた火山灰土で、耕土の深いことを利用して、古くから根菜類の栽培が盛んでした。

特にニンジン栽培は、鎌倉時代中期に導入され、精進料理の材料として鎌倉や小田原等に送られていました。産地としての始まりは、明治後期に行われた箱根山の開墾期を起源としています。

現在では、従来の根菜類中心の栽培から多品目の軟弱野菜等へと移行していますが、三島・沼津などの消費地を間近に控え、県下東部の野菜供給基地となっています。

農地はほとんどが傾斜地で、傾斜が10度以上の耕地が全体の半分以上を占めています。しかし、近年、基盤整備が各地で実施・計画され、機械の導入により省力化が進みつつあります。

箱根西麓地区の歴史

箱根西麓については『谷田山沿革誌』(錦田郷土研究会)によると下記のように説明されています。

天下の山嶮とうたわれた箱根山も、その西麓は東麓に比べ穏やかな斜面をなし、下流域への水源涵養地として、用水・治水の上から重要な機能をもつ山林原野であり、昭和の初期までは秣・茅・薪炭材など、農民生活に欠くことの出来ない資源の供給地であった。

箱根に関わる歴史をみると、古くは平安・鎌倉時代、室町時代、戦国時代と政権を争う幾多の戦いの場となり、又箱根権現、日金山、駒ケ岳など山岳宗教の場として人々の信仰を集め、多くの信者が登山した神秘なお山でもあった。

江戸時代には幕府の街道政策により、東海道が開かれ、三島宿と箱根宿を結ぶ箱根路には、五ヶ所の新田(山中・笹原・三ツ谷・市の山・塚原)がつくられ、峠を越える旅人たちを助け、箱根湖畔には関所が置かれ、箱根関所として、江戸防御の西の要衝として厳しく旅人の取締りがなされ、箱根山一帯は、幕府の天領地としてその支配下にあった。

やがて明治維新になり、明治六年の地租改正法の布告により、天領地であった入会地の官・民有地の所属決定にさいし、政府側の官地編入の姿勢に対し、入会住民はその入会権を主張し、大変な努力により、民有地としての確定を得たことが、文献より知ることができる。

入会秣場が民有地として確定されたのは明治十九年三月である。 昭和初期には、風光明眺なこの箱根西麓を観光地として利用すべく民間会社の手がのび、組合地を会社へ貸し付けるということもおこり、箱根山の自然を守っていくという立場から、この開発を防ぐため、貸し付けられた契約を解約するため、当時の箱根山組合の関係者は大変な苦労をなされたことが記録にみられる。

このように先祖先輩たちの努力により箱根山は守られてき、箱根山組合等の管理のもとに今日の箱根山がある。谷田山は、この箱根山西麓の裾に位置する地域である。

坂地区(三島)

ひと口に『坂地区』とは、三島市の東側に位置する箱根外輪山一体の部落を指しています。

昭和十六年(第二次世界大戦勃発の年)、田方郡三島町と合併するまでは田方郡錦田村に所属していました。

当時の錦田村は谷田の外四つの部落と坂地区の五つの新田部落、そして川原ヶ谷部落の合計十部落で成り立っていました。合併して三島市として発足し既に半世紀を閲していますが、新田などの名称はそのまま残存して現在に至っております。そもそもここ坂地区は昔から国の主要道路の一つ、東海道に沿っており特に箱根山越えの難所としてその名を馳せた地域でした。

箱根峠を境にして東側(神奈川県の箱根町方面)の坂道『東坂』に対して、西側『西坂』と呼ばれていました。次図『箱根西坂道』を参照して下さい。これをみても十有余の坂の名が記されています。こうした坂道の多い地形からここに存在する部落が一般的に通称『坂地区』と呼ばれるようになったものと思量されます。

箱根西坂の図

箱根西麓野菜

箱根西麓はその良質で肥沃な土質と、水はけの良い地形の特性を生かし古くから大根や牛蒡、馬鈴薯、里芋などの根野菜を中心に栽培されていました。

現在では農地整備なども進み、従来の根野菜の栽培は基より、ほうれん草や小松菜、かぶ、ねぎなどの軟弱野菜や、施設栽培によるとまとなどの果菜類など、少量多品目の栽培が中心となっています。これはこの地区の農業従事者が、主に中規模生産者である為のようです。

大根(箱根たくあん漬)

坂地区を中心として、一大産地として名を成した『箱根大根』の歴史は長く、経済と食生活などニーズの多様化により変化しながら、現在に至ります。ちなみに『箱根大根』が世の中の知るところになったのは、平井源太郎が「農兵節」とともに大々的に世に売り出した為といわれています。

その昔には自家用沢庵の原料として生産されると共に、近隣温泉地の旅館(箱根、伊豆地区)などへの納入を主体として生産されていました。

第二次世界大戦時には、軍の重要な保存食として干大根が徴用され、生産面積は拡大しました。その後、第二次世界大戦が終結すると、戦後の食料不足から、副食としての沢庵が重要な食糧として需要も多く、原料大根は生産されていました。そうした中、錦田農業協同組合発足と同時に出荷先を関西市場に移行して連日、三島駅より貨車にて出荷されていました。最盛期(昭和30年から50年頃)にはシーズン三千から四千樽(四斗木樽)が出荷されました。

その後、昭和50年以降は洋食化の波におされ、沢庵としての出荷も減少し、現在では大根の生産は生食用が主体となりました。(現在では、農協による近隣消費への供給も、浅漬沢庵を主体として小口出荷しています。)

箱根西麓(坂地区や函南地区)の傾斜面を使用して大根を天日干しにする『だいこんのはざ掛け』は、冬の風物詩として現在、三島市のカレンダーなどでもよく見受けられる風景です。

箱根人参

予ねてより、『箱根人参』として全国的に知られていますが、その歴史には大きな遍歴がありました。

即ち、戦前にその主体であった長根人参と戦後昭和二十年代後半に新規導入された短根人参(洋人参)です。

第二次世界大戦前は長い間、国分系長人参が箱根地区の全生産量をしめ、いわゆる『箱根人参』として品質形状ともに良く、その名は全国的に高いものでした。

第二次世界大戦後は、食の洋式化が進み長人参の市場流通が減少し、正月納めが中心となり、長根人参の生産量が減少していきました。そうした中で、食の洋式化に対応するため、昭和二十年代後半から、短根五寸人参(洋人参)の導入が行われました。

農協の指導により、短根人参への作付け転換が進められたのです。昭和三十年代に入いると、その作付面積は急速に拡大されました。昭和三十五年には、国の指定産地としての指定も受け、坂地区を中心に作付面積は、約三百ヘクタール以上となりました。三島人参(品種、黒田五寸)として、関東、関西をはじめ近隣の全市場へ出荷がなされました。

現在では、箱根笹原人参部会の『エコにんじん』(県知事認証のエコファーマー取得)などの基本的に農薬や化学肥料など使用しない栽培方法や、減農薬減化学肥料栽培などの栽培方法に変化しながら受け継がれて、一部流通しています。

三島馬鈴薯

坂地区を中心に生産されている三島馬鈴薯(メークイン)は昭和四十年代に入り、作付面積が急増し、一大生産地が形成されました。

それまでは、小麦を中心とした麦が、坂地区の主要裏作物として長い間作付けされていました。第二次大戦後の食事の洋風化で、学校給食をはじめ、家庭においてもパンを主食とした献立が増加し、小麦の消費は伸びましたが、米国産などの安い外国産におされ、国内の小麦生産は全国的に急減しました。その結果価格の低迷と、その割に労働力が係るので、小麦の換金作物としての意味合いが乏しくなっていきました。こうした中、麦作に代わる換金作物として取り上げられたのが馬鈴薯(メークイン)でした。

当時、坂地区の有志農家の人達が、農協、経済連、市場との連携の中メークインを試作し、出荷した結果、坂地区の土壌にも良く合い、高品質であると市場での評価も好評であった事をきっかけとして本格的に栽培が始まりました。生産量も昭和40~50年頃を最盛期として連日、関西・中京・京浜などの主要都市へ出荷されました。

こうして『三島馬鈴薯』は一大産地として三方原馬鈴薯とならぶ全国的に有名な産地となりました。この状況は昭和60年頃まで続きましたが、日本経済の高度成長による若者の他産業への転出による農業離れが続き、農業従事者の高齢化、労働力の減少により、年々『三島馬鈴薯』の生産者は減少しています。

現在では、『三島馬鈴薯』(メークイン)として産地形成していますが、その作付は最盛期の1/3以下となっています。

この『三島馬鈴薯』は形がよく肉質もきめ細かでコクがあると、県内に限らず関東、関西などの都市部のレストランなどのニーズも多いようで、また、出荷期間も一ヶ月ほどと短いため、地元でも中々手に入りにくい状況にあるようです。

三島甘藷

北上地区への甘藷の導入

享保一八年(1733)江戸小石川で青木昆陽により試殖栽培され、農家の米麦の凶作時の代用として推奨された甘藷は、江戸に近く、しかも東海道の重要な宿場であり交通の要衝であった三島地区(伊豆を含む)には、温暖な気候も幸いして、いち早く伝わり栽培されたものと推察されます。

因みに、いま三島名所といわれる公孫樹並木道の両側は、大正八年野戦重砲兵連隊のできる前までは一望の桑畑であった。境川跡を界として、東側は主として徳倉、幸原、一町田、並びに三島町の宮町の人達が耕作し、西側は長泉の中土狩、下土狩及び、三島町の西町の人々が耕作していました。

『山北印』のさつまいも

箱根山西麓は火山灰土で赤くて軽い土である。更にゆるやかな傾斜地である開墾地は旱魃に弱く、葉菜類はしばしば被害を受けたが、根菜類の人参や牛蒡、大根、甘藷等は比較的影響は少なかったとされています。

特に甘藷は明治以来一般農家に少しづつ栽培されてきたが、開墾地に生産されている甘藷が素晴らしい良質のものであることが発見されやがて近隣の大衆も認めるところとなりました。特に、甘藷の主要消費地である大阪、京都方面の好評は大変なもので、需注が日増しに増大し、遂に有名な山北印の甘藷となり、三島いもとなり、北上の農家では甘藷が換金作物の第一となったようです。

参照資料
  • 静岡県ホームページ
  • 『おらっちの野菜ものがたり』(坂地区農産物特産化推進連絡会)
  • 『郷土のあゆみ』 (三島市坂郷土研究会)
  • 『北上特産甘藷さつまいも物語』(北上郷土史研究会)
  • 『谷田山沿革誌』(錦田郷土研究会)
  • 『ざ・みしま』(静岡県三島市)