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   雨の日の勇気

  新人戦のため1、2年が出払い、水泳部の特別練習に参加してい
るのは清川望を含めてわずか三名。なんとなく練習にも気が入らず
コーチもいつもより少し早く終りを宣言した。
  シャワーを浴び、更衣室から着替え終わって出てきた望が窓の外
を見てみると梅雨は明けたというのにしとしとと雨が降っていた。
「雨……。」
  望がそうつぶやくと一緒に練習していた友人の田坂浩子も外に目
をやり、こう言った。
「え?ああ、雨ね。天気予報通りじゃない。望、傘持ってこなかっ
たの?」
「う、うん、天気予報見て来なかったから…。」
  出口まで歩いてきて、そこから望は雨をぼんやりと見つめる。激
しいとまではいかないまでも傘なしではずぶ濡れになってしまう程
度の降り方だ。望は考え込むような顔で雨を見続けた。
  その横で、浩子は鞄から小さな折り畳み傘を取り出し、望の鼻先
に差し出した。
「望、一緒に入ってく?」
  望はその傘をつんと指先で突いて応える。
「いいよ。そんな小さい傘じゃ二人とも濡れちゃうよ。それに確か
教室に置き傘が置いてあるから……。」
「帰る方向も反対だし、その方がいいかもね。」
  浩子は肩をすくめてそう言うと折り畳み傘を広げる。確かに小さ
なこの傘に二人で入ったのでは二人ともかなり濡れることになって
しまうだろう。
「じゃ、望。また明日ね。」
  浩子はそう言うと表に駆け出していった。望はその背中を無言で
見送る。浩子の姿が校門を出て見えなくなっても他へ行こうとはし
ない。
  確かに教室には置き傘があった。しかし、この時刻ではもう教室
に入ることはできない。すでに鍵がかけられているからだ。
  望がしばらくそうして雨を眺めていると、後ろの方で更衣室の扉
が開く音がして誰かが望の方に歩いてくる気配がした。望は一瞬、
ぴくりと反応したが、外に目を向けたまま振り返らなかった。
「あれー、清川さん。どうしたの?」
  今日の特別練習に参加した最後の一人、安達耕平だった。唯一の
男子ということで後片付けをしていたのだった。
「うん、雨がね。」
  耕平は望の隣まで歩いてくると、ちょっと前のめりになり右手を
目の上にかざすポーズまでつけて外の様子を伺った。
「げげっ、本当だ。かー、ついてないなぁ。」
  続いて耕平は回りを見渡して言った。なにかにつけてオーバーア
クションな耕平は見渡すだけなのに上半身を大げさに振る。
「あれ?田坂さんは?」
  望は外を見つめたまま応えた。
「もう帰った。」
「そっかぁ。あいつ、傘持ってたんだ。清川さんも入れてもらえば
良かったのに。」
  望は耕平の方を振り返って首を振った。
「浩子の家は反対方向だし、傘も小さかったから…。」
  耕平は困ったような顔を望に向ける。一瞬二人の目線が合うが望
はすぐに視線を外に外す。つられて耕平も外を見る。
「俺はともかく、大事な試合を控えた清川さんを濡らせて帰したん
じゃ後でコーチに何を言われるかわからないしなぁ。」
「耕平、傘持ってないの?」
  望は期待するように耕平を見つめた。耕平はちらっと望の顔を見
てばりばり頭を掻く。困ったときの耕平の癖だった。
「持ってないんだ。困ったなぁ。」
  望は小さくため息をついてまた外を見つめる。
「そうかぁ。どうしようかなぁ。」
「あっ、そうだ。清川さん。ちょっと待ってて。」
  言うが早いか耕平は先ほど出てきたばかりの男子更衣室に向かっ
て走り出す。
「ど、どうしたの?」
  望も一瞬遅れて耕平を追い掛ける。が、躊躇なく更衣室に飛込む
耕平と違い、望は中には入らない。誰が着替えているというわけで
はないが何となく入りにくかったからだ。望は次々にロッカーを開
けていく耕平の姿を扉の外から見つめていた。
「きっと誰か置き傘してると思うんだ。」
  耕平のロッカーチェックは長くは続かなかった。十二番目のロッ
カーに目指す置き傘はあった。耕平はそれを取り上げると望にうれ
しそうに指し示した。
「さすが、大塚。準備万端だね。こんなにおっきい傘を用意してる
よ。」
  耕平はその傘をぽぉんと望に放った。
「うわっと。」
「清川さん、その傘を使ってよ。明日、俺に返してくれれば大塚の
ロッカーに戻しておくからさ。」
  望は渡された傘を広げてみた。ジャンプ式の黒い男物の傘で望が
持っているどの傘よりも大きいものだった。
  その傘を見つめながら望は言った。
「耕平は?」
「へ?俺?」
  耕平はきょとんとして応えた。何を聞かれているのかわからない
様だ。
「耕平はどうするの?」
「俺?俺は別に大会も控えていないし濡れて帰るよ。」
  望は傘をぱちんと閉じた。
「だめだよ、耕平。風邪引いちゃうよ。」
  望は続いて何かを言おうとしたが、すぐには言葉が出て来ない。
しばらくもじもじと傘をいじっていた。
  耕平は困ったような顔をしてしばらく望を見つめていたが、再び
ばりばりと頭を掻き、再度ロッカーに向かった。
「そうだね。他にも置き傘してる奴がいるかもしれないし。」
  望はびっくりしたような顔をして耕平を見た。
「そ、そうじゃなくて……。」
  耕平は再び次々にロッカーを開けてゆく。中には鍵がかかってい
るロッカーもあるがほとんどのロッカーには鍵はかかっていない。
ほどなく耕平は再び傘を発見した。
「よーし、あった、あった。ぼろいけど、まあ、使えないことはな
さそうだ。」
  耕平が発見したのは緑のビニール傘だった。広げてみると骨が二
本も折れているが確かに使えないことはなさそうだ。
「さあ、清川さん。帰ろうか。」
  耕平が望の方を振り返るとそこにはどことなく不満そうな望の顔
があった。
「清川さん、どうしたの?」
  望はかぶりを振る。
「ううん。別に……。さあ、戸締まりをして帰ろうよ。」
  望はくるっと振り返り出口へ向かって足速に歩いてゆく。慌てて
耕平も更衣室の明かりを消し扉を閉め後を追った。
  出口で明かりを消すと辺りは急に闇に包まれる。早く終わったと
は言え、この時刻まで練習しているのは水泳部だけのようだ。校庭
沿いの道路の街灯と職員室の明かりだけが二人を照らしている。
「うへっ、毎度のこととは言え真っ暗。」
  望は耕平の言葉にくすっと笑った。
「そうだね。お化けでも出そうだね。」
  耕平は真剣な顔で望を見つめる。
「そうそう、清川さん。プールの幽霊の話知ってる?」
「ははははは、もう何回も聞いたよ。それも聞く度に少しづつ違う
じゃないか。もしかして、この話、耕平が作ったんじゃないの?」
  耕平は真剣な顔を崩さず戸締まりをしながら応えた。
「実はね。その通りなんだけど……。」
  二人はそろって爆笑した。
「だってさぁ、きらめき高校って全然怪談とかないんだぜ。つまら
ないじゃないか。」
  二人は笑いながら校門に向かって歩いて行った。
「だからって捏造することはないんじゃないの?」
「捏造とはひどいなぁ。せめて創造と言って欲しいな。」
  耕平は次から次へと与太話を繰り広げてゆく。望もそれに対して
馬鹿馬鹿しいとか下らないとか遠慮なく応じてゆく。もともと陰湿
な噂話とか悪口とかが嫌いな二人にとってこうした会話は本当に心
地好いものだった。
  さらに、耕平はくだらないことを言う度にいちいち妙なポーズを
とったり望の反応を伺うかのように望の顔を覗き込んだりする。
  望もはじめはそれに微笑みを返していたりしたが、他愛もない雑
談の何かが引っ掛かったのか突然、真顔になり言った。
「耕平ってさ。サービス精神に溢れてるんだよね。」
  耕平の言葉を遮るように望の口から飛び出したその言葉に耕平は
少し驚いて望の横顔を見つめた。そのとき望は何を見るでもなく正
面を見据えていた。
「なっ、なんだよ。唐突に…。」
  望は耕平を見ずにその問いに応えた。
「怪談を捏造しちゃうところとかさ……。耕平って、優しいからみ
んなを喜ばせたいんだよ。」
  耕平の傘が大きく揺れる。頭を掻く癖が出そうになったのだが、
流石に傘を持つ手では掻けなかったのだ。
「いや、そういうつもりはないんだけど……。」
  望がごく小さな声でつぶやいた。
「でもそうでなかったら私をデートになんか誘わないよね。」
  雨の中、その声は耕平に届かなかった。耕平は苦手な話題から早
く抜け出すためか唐突に最新情報と称してほとんどあてにならない
噂話を始めた。望は自分の声が耕平に届かなかったことに安心して
耕平の軽口にいつも通りの受け答えをした。
  いつのまにか二人は校門のところまで歩いてきていた。正門はす
でにに閉まっていたので脇の小さい門から二人は外へ出た。
「清川さんのうちって確かきらめき本町だったよね。だったらバス
停まで送っていくよ。」
「うん、いつもは走って帰るんだけど……。」
  耕平の足がピタッと止まる。驚いた表情で耕平は望の顔をまじま
じと見つめた。
「えー、清川さん、練習が終わった後、走って帰ってたの?」
  望は不思議そうな顔で耕平を見つめた。
「うん、そうだけど?」
  耕平は深くため息をついた。
「あれだけ練習した後、まだ走ってたのか。」
「そうだけど……、変かな?」

耕平は大げさに首を振った。あまりの勢いに傘まで振られて水滴
が四方に飛び散った。
「そうじゃなくて。すごいがんばりだなってこと。俺も見習って明
日から走って帰ろうかな。」
「そんなこと言っても耕平のうちってきらめき三番町でしょ?そん
なところまで流石に走れないよ。」
「まあ、そうだけどねぇ。」
  二人はしばらく練習のことタイムのことなどを話した。特に改め
て話す内容などないのだが、好きな水泳の話題なので二人は熱中し
て話した。
  しかし、それも始めのうちだった。はずんでいた会話が徐々には
ずまなくなり、妙に間が空くようになった。望の口数が減ってきた
のだ。
  耕平も望の変化はなんとなく感じていたがその理由までは思い当
たらない。しかたがないので望に調子を合わせて口数が減っていっ
た。
  いつのまにか二人の歩みも徐々に遅くなっていた。はじめは百八
十を越す身長の耕平に合わせ歩いていた望が徐々にゆっくり歩くよ
うになっていったからだ。そういうことには慣れている耕平が意識
しないまま望に歩みを合わせているうちについにはとぼとぼという
調子にまでスピードが落ちた。
  それでもきらめき高校前のバス停は近づいてきた。望と耕平が乗
るのは反対方向のバスだ。
  バス停を目にしたとき望は唐突につぶやいた。
「耕平。藤崎さんのことが好きなんでしょ?」
「そ、そんなこと誰が……。」
  突然の質問に耕平は動揺した。声も若干かすれている。問い詰め
るような視線を望に向けるが望は視線を合わせようとはしない。
「学校中で評判だよ。耕平は藤崎さん目当てできらめき高校に入っ
たってね。」
  望は顔を上げないまま歩き始めた。耕平は望にというわけではな
いがその後ろ姿に向かって叫んだ。
「そんなことを言うのは好雄だなぁ。あのばか。流していい噂と悪
い噂の区別がつかないのか。」
「だって本当のことなんでしょ?いいんだよ。恥ずかしがらなくっ
ても。」
  望の足が早まった。一瞬取り残された耕平は慌てて望を追い掛け
望の傘を自分の傘でこつんこつんと突ついた。無意味な行為だった
が何かせずにはいられなかったし他にどうしていいのかも思いつか
なかった。
「違うって、清川さん。彼女は単なる幼なじみ。だって家が隣なん
だぜぇ。」
  望はくるっと振り返り耕平の顔をじっと覗き込んだ。
「本当にただの幼なじみ?」
  望の真剣な眼差しにどきどきしながら耕平は応えた。
「当たり前だよ。俺は、あの、その……。」
  耕平は傘を持つ手で無理やりばりばりと頭を掻いた。傘から水滴
が派手に飛び散る。
「わかった。ごめんよ、耕平。変なこと聞いちゃってさ。」
  望は耕平に向かってにっこり笑った。その笑顔にほっとした耕平
はそのとき走ってくるバスを見つけた。
「あっ、いけない。清川さん、走るよ。」
  返事も待たずに耕平は走り出した。望も返事をしないでついて走
る。二人は無言でバス停まで走った。
  二人がバス停にたどり着いたとき、バスは手前の赤信号に丁度、
引っ掛かったところだった。
「ふう、なんとか間に合ったね、清川さん。」
  望はうつむいて返事をしない。何かを考えているようだ。さっき
のことをまだ考えているのだろうか?わかってくれたんじゃないの
か?じゃあ、なぜ?
「清川さん、あのね……。」
  そこまで言って耕平は絶句した。なにを言っていいのかわからな
かったのだ。望もうつむいたまましばらく返事を返さなかったが、
突然話はじめた。
「耕平、私、本当は今朝天気予報見てきたんだ。」
「え?」
  耕平は望と顔を合わせるのを避けるようにバスを眺めていたが、
望の言葉にバスから望に視線を移した。しかし望はうつむいたまま
顔を上げようとしない。
「もし、明日が雨の予報でも私はまた傘を持ってこないけど、耕平
は持ってきてね。」
「清川さん……。」
  信号が青の変わりバスがバス停に向かって走ってきた。
「大きな傘じゃなくっていいから……。」
  バスがバス停についた。耕平は何も言わない。望もなにも言わず
にバスに乗る。望は入ってすぐのところで耕平をじっと見つめてい
る。
  呆然とした顔付きで望を見つめる耕平に向かってバスの運転手が
乗るのか乗らないのかを尋ねた。耕平が慌てて乗らないと応えると
バスの扉が閉まった。
  バスがゆっくりと動き出す。望はバスの動きに合わせて少しづつ
奥に歩いて行く。その間も望は耕平の方から目を離さない。最後に
はバスの一番後ろまで進み後ろの窓から耕平の方を見続けた。
  五十メートルほどバスが走ったところで耕平は傘も鞄も投げ捨て
バスを追い掛けて走った。
「後で電話するから。電話するからぁ!」
  耕平はバスに向かって大声で叫んだ。しかしバスはどんどん遠ざ
かってゆく。しばらく走ったところで耕平は諦めて止った。次のバ
ス停までにバスに追い付くことはできそうになかったからだ。
  自分の声が望に届いたかどうかは耕平にはわからなかった。望が
微笑んだような気がしたが、気のせいのような気もした。
  それでも耕平は自分のバス停に向かって走った。早く帰って電話
しなくてはいけないからだ。なぜかはわからないが、耕平は望が耕
平からの電話を待つだろうということだけは確信できた。

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