
1981年、名門、明治学院大学文学部英文学科に入学。英語を学ぶために大学へ行ったはずが、大学の授業の英語のレベルの低さにあきれはて、学業に愛想を尽かし、MCC(港サイクリングクラブではなく、Meijigakuin Cycling Club)に入部、自転車道を学び始める。
第1学年、北海道一周、四国一周のロングツーリングを経験、今は死語?となりつつあるランドナーというタイプの自転車にフル装備で1ヶ月、それぞれ約2,000キロを走破。サイクルツーリングの素晴らしさを満喫する。四国でのプライベートラン(サイクリングクラブの合宿の前に個人個人で行う単独ラン)では自分で設定したコースにもかかわらず、あまりのハードさに2度の泣きを体験。
第2学年、部員がいないために廃部寸前の競技部門からお誘いの声が掛かり、レース活動を開始。初めてのレース、学連のチームロードレース、朝の6時スタート、伊豆修禅寺のCSCを12周も走らされた時にはあまりのつらさに閉口、しかしながらレース後の充実感が忘れられず、そのままレースの世界に突き進む。
翌年、千葉の館山で開催された学連登録弱小校による合同合宿に参加。弱小校ながらも当時の強豪チーム、日大、法政、中央を倒すことに命を懸けている選手達(シクロクロスを日本に広めた藤森信行氏を筆頭に、トライアスロンの中山俊之、現JCRCで活躍中のシクロガーデン小泉操、世田谷自転車クラブの小嶋)と出会い、感化され、打倒!強豪チームに命を懸けることを心に誓う。

第3学年、学業そっちのけでロード練習に明け暮れる日々が続く。春先のチャレンジロードでの優勝を目標に、冬場の走り込みをするが、夢はかなわず、落ち込み、ロードをあきらめ、上り坂の無いトラック専門でやることを決意。夏のインカレポイントレースでは明大の中山、新潟大の小嶋と3人で集団からエスケープ、何と日大、法政、中央を周回遅れにするという弱小校としては初の快挙?を果たすが、その後、日大、法政、中央に2ラップ周回遅れをカマされてしまい、結局7位で入賞ならず。この年、千葉県国体予選ポイントレースで見事優勝、群馬県で開催された赤城国体に千葉県代表選手として出場。

第4学年、選手としての実力の壁にぶち当たり、今後のなりふりを考えつつ、競技活動を続けるが、新進著しい後輩連中に自ら打ち立ててきたクラブ記録を次から次へと塗り替えられ、落ち込む。就職活動はほとんど行わず、進む道は1つ、自転車業界と心に決めていた。栄輪業への就職を決め、社会人レーサーとして日本一のレースマンを目指す。
1984年、栄輪業、自転車部品メーカーで自転車業界の掟を学ぶ。今思えばあっという間の10年間だったような気がする。工場研修で自転車パーツがどのようにして造られるのかを学び、国内営業で丸石自転車に納期督促で怒鳴られ、輸出業務でアップルコンピューターと出会い、広報部(そんなセクションはなかったが...)でカタログ作りを学び、1990年、日本で開催された世界選手権を迎える。栄輪業は市川雅敏、ミッシェルバルタン、ステファンペイト、ネルソンベイルズらをサポート、その担当となり、あちこちを飛び回る。


1995年、栄輪業に勤めること約10年、一念発起して独立開業に踏み切る。栄輪業で学んだ全てを糧に、自転車店の経営に乗り出す。屋号はサイクルショップナンバーワン、もちろん、日本一、世界一の自転車店を目指しての旅立ちであった。開業に当たり、千葉の地方卸に仕入をお願いに行き、この不景気に自転車店なんてやめておいたほうがいい..と一蹴されることもあったが、何とか開業にこぎつけ、昨今はインターネット通販に力を入れている。