
●ロードバイクで走っていると何やら雀の声が..と思っていたら何と道の真ん中に4匹の小猫が...。冬の寒い日にかわいそうに..こんなところにいたら車にひかれてしまうよ、と手に取って歩道の茂みの中に..。再びロードバイクで走りだした私の頭の中を駆け巡るのは3年前に死んでしまった飼い猫のこと。飼い猫がいると泊まりがけの出かけが出来ないし、何と言っても死んでしまったときの悲しみを思うと..もう二度とペットなど飼いたくないと心に誓ったあの日..。しばらくしてふと道脇を見ると車にひかれて死んでしまった小猫の死骸が..。あ〜さっきの猫達もこんなふうにひかれてしまうのかな?と思った途端、ここまで走ってきた30分の道のりをUターン、4匹いれば1匹死んだって寂しくないし..自分に言いわけしながら必死でペダルを漕いでさっきの場所へ..。猫達を拾い上げ、はて、どうやって持っていこう?かぶっていたヘルメットを脱いで猫達をヘルメットに入れ、脇に抱えて片手ハンドルで約30分の道のりをポタリングして帰っていくのでした。
●学生時代、初めてルーフキャリアを使ってバイクを運搬したときのこと。トラックバイクをひっくり返してルーフキャリアに搭載、いざ立川競輪場へ、道中、屋根の上に自転車が乗っかっていることに気を配りながら慎重に運転、何とか無事に競輪場に到着。レース参戦後、ほっと一息ついてあとかたずけ、ふたたびバイクをルーフキャリアに搭載して車をバックさせる...と、ガリガリ!レース後の安堵感からかすっかり屋根の上にバイクを載せていることを忘れてた!!。不思議なことにロードバイクは無傷、壊れたのは先輩から借りたルーフキャリア。自転車の縦方向への強度に改めて感心しました。
●1992年?だったかな?国際競輪で来日していたバルタンとネルソンから電話があり、俺達は国際競輪での来日は本年で最後だから、今まで世話になったお礼にご馳走するから出てこいよ...。新橋のホテルで落ち合うと、Mr.Tejima、何が食べたい?私は美味しいてんぷらが腹いっぱい食べたい!お茶の水に良い店が有るんだ...と山の上ホテルのレストランへ。バルタンとネルソン、私と付添の一人と4人で腹いっぱいてんぷらを食べて、お会計、伝票を見たネルソンは、ほ〜7千円か〜、とバルタンが、バカ、桁が一つ違うよ、7万円だよ!これには私もびっくり!悪かったねぇ〜と恐縮してしまいました。それでも彼らは国際競輪でたらふく稼いだったし、それまで散々トレーニング用のバイクやらパーツやらスポンサー企業としてたくさんサプライしてきたので、これでとんとんかな?と妙に納得しているのでした。トラック競技世界選手権のチャンピオンのバルタンと、オリンピックメダリストのネルソンにご馳走してもらったのは私のちょっとした自慢話だったりします。
●学生時代の頃はヘルメットは重く、かぶっているのが苦痛以外の何者でも有りませんでした。かつてはロードレースでも約1キロもある競輪へルメットをかぶることを義務づけられていましたから、首が疲れて仕方がなかったです。トラックレースでもレース時間約1時間のポイントレースとなると首がつりそうになりました。現在のヘルメットは軽量で形状もかっこよく、素晴らしいものなので、ヘルメットをかぶることになんの抵抗も有りませんが...。私はレースではヘルメットをかぶっていましたが、普段のロード練習ではヘルメットはかぶっていませんでした。現在のライダーにはヘルメットは必須アイテム、バイクライドの際は必ずヘルメットをかぶることをお勧めいたします。

●ロードバイクでは通常、クランクは172.5mmを使用していましたが、修禅寺スペシャルと自ら銘打って175mmをバイクに取り付けて練習したことがありましたが、2.5mmの違いがこんなにも...と感じたものです。富士山のレース合宿でためしたことがありましたが、効果なし、脚力負けしてしまい、クランクを長くしたところで登りを早く上れる、という簡単なものではありませんでした。
●久しぶりに銀座に出てふと、思った、昔はこんなごちゃごちゃしたところをロードバイクで走っていたんだなぁ〜。現在と20年前ではもちろん交通量が違うとは思うけれど、千葉の実家から京葉道路を経て錦糸町、日本橋、銀座、国道1号へ出て品川は白金の明治学院大学まで、片道3時間の道のりをロード練習と証して良く走ったものです。帰り道は京葉道路(高速)で荒川を渡ることも多々ありました。現在は高速道路の車線が増えてしまったために困難ですが、20年前は帰り道に国道14号をず〜と走っていくと知らない間に高速に入ってしまってそのまま江戸川を越えて市川を経て千葉に帰っていたのでした。車道を走っていると交番のお巡りさんに、歩道を走るようにいわれ、歩道を走れば歩行者に邪魔され、それじゃあ自転車はどこを走ればいいんだ?とぶつぶつ文句を言いながら良く走ったものです。
●車で町中を走っていると、ロードバイクでさっそうと走っている人を見つけては、あ〜ちょっとギア軽すぎる..。フレームサイズ合ってないなぁ〜、どこのバイクだ?などとあ〜でもない、こ〜でもないと思いを巡らしています。前にも話したことが有るかもしれませんが、外人さんは手足が長いので、買い物自転車に乗っていてもかっこよく見えてしまうのはいいなぁ〜といつも思います。
●自転車遊びの醍醐味は、自分でいろいろな部品を組み替えて遊ぶことが出来ることだと思います。私も学生時代からいろいろと部品を寄せ集めてはロードバイクを組み上げ、走り回るのが大好きでした。ロードバイクは自動車でいえばいわばレーシングカー、F-1、とまではいわなくてもサーキットを駆け抜けるレーシングマシンを自分の手で組み上げて、レースに参加するということは自動車遊びではとても出来ないことですが、自転車ではそれが可能です。以前、店舗で営業していたときに、お客さんがいっていたことを思い出します。自転車のパーツは車の改造なんかに比べれば値段が手ごろでいいよね〜。自分は自動車の改造などやったことが無かったのでとても意外に思えました。桁が1つほど、違うらしいです...。
●テレビを見ていたら、最近は足先専用のカイロが有るそうで、これが有れば厳寒のロード練習には持って来いだなぁ〜と思いました。寒い日のロード練習、5〜6時間も走っていれば、足先の冷たさは堪え難いものが有ります。シューズカバーをしようが、トークリップカバーをしようが、常に前から冷たい風を受け止めているので、素材そのものが冷えきってしまえば、冷たくなってしまいます。シューズの足先に唐辛子を入れると良いという話を聞いたことが有りましたが、肌荒れしそうなのでちょっとNG、そのかわりに新聞紙を入れたり、アルミホイルを入れたりといろいろためしてみましたが、どれもだめだったのを思い出します。最近はそんなに長い時間走ることが無いのでシューズカバーで事足りると思いますが...。

●初めてトラックのポイントレースに出たときは実力うんぬんの前に、集団走行の恐ろしさに圧倒されてしまい、集団の後ろにひらひらついていたらいつの間にかちぎれてしまい、スタートして10周ほどでリタイヤという情けない結果でした。そんな私でしたが、経験を重ねるにつれてバンクを蝶のように舞い、ダブルポイントの手島、といわれるほど活躍、集団落車には不思議と巻き込まれない..というジンクスが有りました。慣れればバンクはほんと、気持ち良く走ることが出来ます。
●大学のエベントの帰り、ランドナーで都内は原宿周辺を走って帰路についていた私は交差点で交番のお巡りさんに呼び止められて、防犯登録は?してあるか?部品の寄せ集めで自分で組み上げたランドナーに防犯登録などしてあるはずもなく、よく盗難車あつかいで不審者扱いされたのを思い出します。
●大学の春のレース合宿は山中湖に宿を置き、約1週間。朝練は朝食前の山中湖一周のロード練習、昼練は毎日富士山1周。最終日には実力テストとして河口湖からのスバルライン個人TTが行われていた.毎日毎日、朝起きるのがつらく、前の晩は天気予報ばかり見ていた。雨が降れば合宿所で一日卓球大会。参加人数は3〜4人。ロード練習の内容は実戦形式、約140キロを4人で先頭交代しながらひたすら走り続けるだけ..ちぎれた奴はマイペースでサイクリング..。今思えばこんなトレーニングでは強くなるはずが無いと思います。最終日の個人TT、1年目は1時間30分でスバルラインをトップタイムで登り、喜んでいたが、翌年、新入生が入ってきてあっさりそのタイムを塗り替えられて落ち込んでいました。
●大学を卒業して某自転車部品メーカーに就職して、研修期間として現場(工場)勤務を命じられ、初めて現場へ出勤したときに、これはとんでもないところへ就職してしまったと思いました。自転車部品メーカーといっても、いわゆる町工場、自分がレースで使用している部品がこんなところで組み立てられているのか?クランクのギヤ板の芯出しをするのにプラスチックハンマーでギヤ板をたたいているのには驚きました。それでも、すめば都?現場で勤務すること約1年、とてもなじんでしまい、このまま現場勤務でもいいかな〜と思ったりしました。
●学生時代、初めて自分で組み上げたホイールで埼玉県は正丸峠から東京都心までロードバイクで走って帰ってきたときの事。スポークが切れる切れる。初めて自分で組み上げたホイールだったので、スポーク切れはあらかじめ予想して何本かスペアのスポークは持っていっていましたが、あっという間に使い切ってしまいました。スポークが3本も切れれば、その場のおきゅう処置ではスポークテンションはばらばらに、それが悪循環でどんどんスポークが切れはじめ、えらい目に有ったのを覚えています。自転車組立の中で一番の技術を要するホイール組、マスターするにはかなりの時間を要します。

●最近気がついたのは、体重を落とそうとして運動量を増やすのは逆効果で、適度な運動でバランスのとれた食事をすることが重要だということ。1時間のバイクトレーニングよりも30分のウォーキングの方が良いのではないか?。運動の消費カロリーは少ないけれど、激しい運動をしておなかが空いて空腹感を我慢するより、適度な運動で少ない食事摂取をすることの方が、体には良いのではないか?40代になれば40代なりの体調維持の仕方というものが有るのだと思いました。
●某自転車部品メーカーの現場で働いていた時の頃。工場長がシマノの高級グレードのクランクセットを持ってきて、それを見た現場のおじさん、おばさん達は、オ〜オ〜、シマノのクランクは顔が写るのかい?と言っていたのを思い出します。私の勤務していたメーカーは中級パーツの生産がメインでバレル仕上のクランクがほとんどでしたが、シマノのハイポリッシュ仕上のクランクがとても奇麗に見えたものです。
●学生時代のサイクリングクラブの合宿でのツーリングスタイルは、1班5〜6人で走行、縦一列の集団で走り、一番先頭を走るのがリーダー(2年生)、集団のペース配分を担当、また走行ルートの下調べ、などもしなければなりません。一番後ろは責任者(3年生)、後方の安全を確保します。リーダーと責任者の間を走るのは1年生です。呼び名は違ってもどこの大学のサークルでもこんなシステムでツーリング合宿をしていたのではないでしょうか?。男子部員は常々女子班で走るのを望んでいるのが常でしたが、硬派の私は女子班で走るとスローペースで走らなければならないのであまり好きでは有りませんでした。
●学生時代のツーリングの合宿では宿に着くとすぐに反省会です。今日のどこどこの班のリーダーは○×だったとか、責任者の安全確保は○×だとか..まじめなミーティングをしていました。合宿の最終日の夜は打ち上げコンパ、上級生が下級生に酒をたらふく飲ませて潰すというのが恒例でしたが、下戸の私はこのコンパが一番苦手でした。飲んではゲロを吐き、の繰り返しばかりの私は次第に先輩達からはコンパでは相手にされない存在になっていました。急性アルコール中毒なんじゃないの?という位皆飲んでました。私には着いていけない世界でした。私は現在も下戸です。
●学生時代を千葉の実家で過ごし、社会人となって東京は足立区へ越してきて、いざロード練習をしようと思ったとき、信号の多いこと...。100メートル、いや、50メートル走っては止まり、またダッシュ..。学生時代、千葉の田舎でロード練習をしていた私が、どれほど練習環境に恵まれていたか...思い知らされました。会社の同僚にそんな話をしたら、おまえ、そんなもん、環七の陸橋でダッシュ練習すればいいんだよ..と言われてしまいました。

●自転車部品メーカーに勤めていたときは、仕事がつまらなくて、つらく、いつ転職しようか?と考える日々が続いていました。そんなとき、ある上司から、会社にぶら下がる人間ではなく、会社を支える人間になれ、と励まされたのを思い出します。たとえ現状が不服で他の会社へ転職しても、100%自分の理想にかなった労働条件など、ありえないのなら、いっそのこと今の会社を支える人間になれと...。
●学生時代、毎日6時間のロード練習。朝起きて天気を確認、晴れならば何の躊躇もなく出発。雨ならしかたなく(内心嬉しい)練習中止。曇りの朝は、雨ふるかな〜?雨降って泥滑って転んでけがしたら大変だし..風邪引くかも...電話で天気予報を確認して..あ〜でもない、こ〜でもないと練習に出かけなくても良い理由を探し..まあ、10中7〜8はしぶしぶ練習に出かけるのですが...。自転車のトレーニングはなかなか厳しいです。
●オリンピックのメダリストを見ていると、自分が勝ったレースの事を思い出して胸が熱くなる。優勝したのは2回、千葉県の国体予選ポイントレースチャンピオン、そして東京都ポイントレースチャンピオン。たとえそれが小さな大会であろうと、レースのレベルが低かろうと、20年たった現在ではそんなことは誰にも解るはずもない..。とりあえずは胸を張って、私は千葉県と東京都のポイントレースチャンピオンだ!。言った者勝ちです。
●自転車業界の一員として、自転車をチャリンコなどと軽々しく言うことはしないよう、心がけている。いつかどこかで、誰かが言っていたのを思い出す。業界の人間なら、レースの成績はライダーの脚で決まるのではなく、自転車で決まる事を肝に銘じろ!。
●自転車屋の私ですが、私の自転車歴のなかで、メーカーの完成車を買ったことが有りません。いつもフレームとパーツの寄せ集めで自分で組み上げたバイクに乗っています。学生時代、初めてツーリング用のランドナーを作ったとき、フレームは先輩譲り、他、パーツは先輩とともにショップへ出向いて購入、その後、先輩宅にて自転車を組み上げるという経験をしました。それ以来、私も後輩には、フレーム&パーツから付添で組み上げる指導をするようにしていました。自分で組み上げた自転車であれば、ツーリングでメカトラブルに遭った時でも、何とか対処できると思うのです。

●自転車店を開業して店のお客さんと筑波サーキットで開催された耐久レースに参加した。軽自動車のワンボックスに5人乗って5台のバイクを積んで、ぎゅうぎゅうずめで出かけていった。12時間の耐久レース、走り出してすぐに、つまらないレースだと思った。1週数キロの自動車用サーキットをぐるぐるぐるぐるぐるぐる何回も何回も大勢の集団と走り続ける..なんだか大集団でロード練習しているみたい、駆け引きも何もなく本当は有るのかもしれないかが...)ただただ、走るだけ..。自分には向いていないと思った。
●レース部門の合宿はロード練習して飯食って寝るだけ。ロード練習終わって合宿所に帰ってきて晩飯食って眠りにつくまでが一番楽しい一時でした。眠ってしまえばもう朝、つらいロード練習が始まってしまいます。今夜は誰がどんぶり飯何杯食ったとか、話す言葉も少なく...。
●自転車で走っていて道路に1万円札が落ちていたらどうします?走りながら拾うことができますか?学生時代、私は練習しました。走りながら右手をハンドルから放して地面に指先を付け、そのままの格好で交差点で信号待ち...。文章でかいてもどんな格好なのか、皆目見当もつかないかもしれませんが、当時はそんなばかなことも真剣にやっていた自転車フリークの私です。今もできるかって?残念ながらできないと思います。
●学連の試合で初めてタンデムスプリントに参加したとき、自転車というものはこんなにスピードが出せるのか?と驚いたものです。伊東競輪場の333mバンクでタンデムスプリントをかけたとき、ゴール前の最終コーナーでバイクは壁のようなカントにへばりついて猛スピードで走り抜けていました。タンデムバイクの場合、前に乗る人(私)はコーナリングでかなりの腕力を必要とします。スプリントをかけるには2人のタイミングが合わなければならないので、私たちのチームは、せ〜の、と声に出してスプリントをかけていましたが、声を出したらどこでスプリントを仕掛けるか対戦相手にわかってしまうのですが、そんなことよりも、伊東競輪場の333mバンクでタンデムスプリントをやるということ自体、半分びびっていたので、勝ち負けは二の次..というのが本音でした。タンデムスプリント予選を2本走ったそのすぐ後に出場したポイントレースで1人乗りのトラックレーサーに乗ったとき、私の背中には羽根が生えているのではないか?と思うほど体&バイクを軽く感じたのを思い出します。...にもかかわらずポイントレースでは予選を通過できなかった..。
●サイクリングってこんなにらくちん?最近つくづく思います。上り坂だって自分のペースで上れば心拍数もそんなに上がらないし、平坦路なんてらくちんらくちん。レースをやっていたころは、バイクライドするときはいつも目一杯、心拍数アップアップするくらいで走らないと強くなれないと思い込んでいたあの頃は、バイクほどつらい乗り物はないと思っていた...。サイクリング、マイペースで走れば、適度に血の巡りも良くなり、ほんと、体に良いと思います。

●サイクリングを始めた頃、バイク専用のバイクパンツを履くのにはかなり抵抗がありました。下着を履かずに直接バイクパンツを履くなんてはずかしい.。いまでは全くもって当たり前のことだし、レーシングパンツの下に下着など着たりしたらどんなにカッコ悪いかということも当たり前のことです。レースを始める前、ツーリングをやっていた頃はよくジーパンを履いて走り回っていたものです。
●今思えば、学生時代、千葉市の自宅から品川は白金の大学のキャンパスでロードバイクでよくもまあ通学したものだと思います。途中、京葉道路(高速道路)をちょっとだけ走ったり、渋滞する銀座通りを車の間をすり抜け走り抜け、片道約3時間かけて通っていたわけですから、いい練習になっていたと思います。当時通っていた道(国道14号線や銀座通り)は今は交通量が大変多くなっているので、ロードバイクでそこは走ることはかなり難しいと思います。
●ロードバイクで走っていて怖いのは大型車両、最近は千葉の田舎の狭い道でも結構ダンプが走っていたりします。ロードバイクで走っていて後ろからものすごい音を立てて大型車両が迫ってくると思うと思わず路肩にバイクを止めて、やり過ごしてしまいます。この前なんかバスが音もなく近づいてきて、気がついたら真横にバスが...なんてことがありました。できるだけ大型車両が走っていない道を考えてコース設定していますが、あ〜あ、あそこへは行きたいけれど、途中のあそこは大型車両来るしなぁ〜とちゅうちょしてしまうことが多々あります。
●春先になるとタイツともおさらば、すね毛を剃らなければなりません。大学を卒業して社会人になり、風呂なし月2万8千円の安アパートに暮らしていた頃、私は銭湯ですね毛を剃っていました。ちょっと恥ずかしかったけれど、すね毛を延ばしてレーシングパンツを履くことの方がもっと恥ずかしいと思っていましたし..。
●ツーリングをやっていた頃、峠道をがーっと上って、間髪入れずに下り坂をばーっと下る、これが最高の楽しみでした。観光地を自転車で巡るとか、そういう問題ではなくて、自転車で見知らぬ町を走り回っていることが快感でした。北海道、四国、大学時代、ツーリング部門に所属したのはたったの1年、その後、私は健脚を買われて自転車競技の世界へと進むのでした。

●かつて、カマキリ走法なるものがあったのをご存知であろうか?両手をブレーキブラケットにかぶせるようにしてハンドルを握る(押さえる?)走法で、上り坂ではこのフォームがスタンダードだった。メルクス、ヴアン・インプ、イノー、昔のロードマンはみんなやっていた。今ではシマノのSTIデュアルコントロールレバーが変な?ポジションでドロップハンドルの上に鎮座しているので、カマキリ走法はできない...。
●ロードバイクで走っていていつも腹が立つのはは自動車のためにつくられた道路の舗装状態。ローリング行為禁止!とかいって路面に凹凸をわざと付けたり、反射アイテムを内蔵したボッチを道路の端に着けたり、全くもって走りにくくて仕方がない。自転車のことなんて全然考えていない道路整備にはたまりません、ほんと。
●本年のツールも残すところ3ステージとなりましたが、現時点ではランスの6連覇がほぼ確定。6連覇は絶対に無いと豪語してしまった私ですが、まさかこのようなつまらないレース展開になるとは思ってもみませんでした。本来、ランスの対抗馬となるべき選手達のピレネーでの情けない走り、そしてアルプスへ入ってからはリタイヤ続出。果たしてランスと真っ向から勝負したのは誰?。山岳でのあまりにも強すぎるポスタル勢のチーム力、ランスファンにとっては万万歳の本年のツールかもしれませんが、私はウルリッヒファン、も〜毎日見ていてストレス溜まりまくりでした。毎晩毎晩、各ステージのスカパー中継をフランス語で最後まで見て、落ち込みながら眠りにつくわけですが、翌日、T-mobileのHPをチェック、ウルリッヒの毎日のコメントを読んで勇気づけられ、今日こそは活躍してくれるに違いない!と意気込んでまたまたツールの中継を見ているという..この3週間でした。果たしてこんなに簡単に6連覇が達成されてしまっていいのか?フランス語が解ればL.A. Confidencialを読んでみたいと思う今日この頃...。
●ツール・ド・フランスという自転車レースが有るのを初めて知ったのは1981年、大学でサイクリングクラブに入ってから...。
1982年:ベルナールイノーが最終日、パリのゴールでイエロージャージを着てゴールスプリントで勝ったのを見て、オールラウンダーというのはスプリントでも強いんだと思いました。(本年、秘かに最終日、ランスがゴールスプリントに加わるんじゃないかと期待していましたが、さすがに近代ツールではそんなことは無理のようです。)
1983年:イノー、膝の手術のためツール不参加、同じルノーチームの新人、フィニョンが若くしてツールを初制覇
1984年:イノー、膝の手術から復活、ギマール監督との確執でルノーチームを去り、ラ・ビクレールチームとして参加、かつての弟子、フィニョンとの一騎打ちに破れてしまいます。
1985年:イノー、前年の惨敗の屈辱を果たすべく頑張りますが、ゴールスプリントでの落車に巻き込まれ、鼻の骨を骨折しつつも優勝。レモンが勝ちに行けたのに、チームオーダーでレモンがイノーのアシスト役に回ったという話は有名。
1986年:イノー、前年のレモンとの約束が有りましたが、史上初の6勝に目がくらみ、一時は約束不履行か?と思わせる行動も...最終的にはレモンがアメリカ人として初優勝。
1987年:レモン時代到来か?との期待に反してレモンはオフシーズンに趣味の狩猟で散弾銃の玉を浴び大怪我、ツール参加どころではなく、かわりにツールを勝利したのはアイルランドの星、ステファンロッシュ。ロッシュはこの年、ジロ、ツール、さらには世界選手権をも勝ち、カンピオニッシモの称号を手に入れます。
1988年:デルガドが優勝、ツールは誰が勝ってもおかしくない時代に突入...。デルガドの優勝にはドーピング疑惑が取りざたされました。当時、インデュラインはデルガドのアシスト役。
1989年:レモンのレース人生は終わった..そう誰もが思っていたら、最終日にそれまで総合トップだったフィニョンとの約50秒のタイム差を最終日の25キロ個人TTで8秒差でひっくり返して勝利、このときの個人TTのレモンの平均時速は未だ破られず...。エアロバーが初めてツール・ド・フランスに登場した年です。
1990年:日本でアジア初の世界選手権開催、レモンが日本にやって来たこの年、レモンはツール2連勝、レモン時代到来と誰もが、そう思いました。
1991年:レモンツール4勝目を取りに行くもスペインはバスクの巨人、インデュラインの前に破れてしまいます。インデュライン時代到来。
1992〜1995年:日本でのツール放映権がNHKからフジTVに移り、その番組作り(放送時間少なすぎ、山岳しか放送しない)に憤りを感じ、ツール観戦辞退。ほとんど記憶に無い....。
1996年:太陽王インデュライン堕ちる...。骸骨男?テレコムのリースが勝つも、リース時代が到来とは誰も思わなかった。むしろ、新人で大活躍したウルリッヒへの期待が膨らんだ年。
1997年:ウルリッヒ、若すぎるツール初優勝。誰もがウルリッヒ時代到来を信じた年。
1998年:パンターニダブルツールの年。スカパー中継始まる。ウルリッヒとパンターニの対決はとても面白く、興奮させてくれた。
1999年:癌を克服したランスが突然ツールで大活躍、あのケイデンスは何?常識破りの走りにただがく然..。
2000年〜2004年:ただただランスがひたすら強く、勝ち続けた年。個人的にはランスが強すぎて対抗しうる選手が誰もおらずレースの内容的にはつまらない...。

●今はケブラービードなるものが有るのでタイヤを折り畳むことができますが、私がツーリングをやっていたころはそんなものは無く、ワイヤービードのみ。北海道を一人でツーリングしていたとき、未だ自転車初心者だった私は、ワイヤービードをケブラービードのように折り畳んでサイドバックの中にしまっていました。日高山脈の下り坂、タイヤがバーストしてしまい、タイヤ交換を...と思って折り畳んだタイヤを広げてリムにはめようとしましたが...もちろんうまく取り付けられるはずが有りません。なんとかごまかしてリムをタイヤに取り付けて走り出します...が、走っているうちにタイヤの中からチューブがはみ出してきて爆裂音とともにパンク。日高の山の中、熊注意の看板、夕暮れ...、私の頭の中は真っ白..。仕方ないのでタイヤをパンクしたままリム走行で山を下りきり、日高の町で野宿、次の日に街の自転車屋でタイヤを新たに購入、装着してツーリングを続けたのでした..。
●ロードバイクで練習をしていると、頭を巡るメロディーがあります。その日の朝、一番に聞いた歌とか、走っていてひょんなことから思い出すメロディー...。これが始まると、ロードバイクで走っている間中、ずっとそのメロディーが頭の中を駆け巡ります。必ずしもアップテンポの曲ではなく、バラードだったりすることの方が多いかもしれません。
●大学を卒業して社会人になって約1年、レース活動を停止することを決断しました。住居が千葉から東京のど真ん中に変わって練習環境が変わったこと、学生時代のように自由気ままに好きなときに好きなだけ自分のペースでトレーニングができなくなったこと等、理由はいろいろと有りますが、社会人として本格的にレース参加していくことの大変さを思い知らされました。大学を卒業するときは、実業団で活躍できる選手になりたい..などと豪語していた私ですが、なんともはや情けない、たったの1年での挫折でした。レースに出ても勝てない、着にも入れない、そんな悪循環に絶えきれませんでした。それまでの自分の人生の中で最大のモチベーションだった自転車競技を失ったときの空虚感はかなりショックだったと思います。その後は、自転車に関係する仕事に携わることを最大のモチベーションに、今日まで来ています。
●春先に、久しぶりに養老渓谷周辺を車で走ることがあったのですが、景色の素晴らしいこと...。青い空、桜は満開、鮮やかな黄色い菜の花は咲き乱れ..、学生時代、ロードバイクで走ったあの道を、久しぶりに車で通れば、再びロードバイクで走ってみたいな〜という欲求に狩られた一日でした。
●大学で本格的にサイクリングを始めたころ、サイクリング愛好会の同僚に言われたのを思います。あのさ、100キロなんて距離、走るの大変だと思うでしょ?でもね、時速25キロで4時間走れば100キロだぜ、な、簡単だろ?私はそれを聞いて妙に納得してしまいました。大学1年の夏、北海道で始めて一日の走破距離が100キロを超えたときの充実感は最高でした。ちなみに私の1日の最高走破距離はたぶん約300キロ。直江津〜東京の日本横断で、約13時間でした。

●大学のサイクリングクラブで直江津〜東京を一気に走破する耐久ランという行事が毎年行われていて、私も一度だけ参加したことがありました。そうは時間は約13時間だったと思います。夕方の4時頃に直江津をスタートして、東京に着いたのが翌日の明け方..。20人ほどのクラブ員が数十分間隔でスタートしてゆき、私は一番最後のスタートでしたが、東京のゴール地点につく前に全員抜き去りました。途中、ほとんどノンストップで走りましたが、途中の碓氷峠の手前、軽井沢駅で15分ほど休憩したのを覚えています。理由は真っ暗な碓氷峠を一人で下るのが怖かったから...。誰かパートナーが軽井沢駅に来るまで待っていたからです。当時の真夜中の碓氷峠は本当に真っ暗で、お化けがでるとかいううわさが流れていたような...。ブレーキかけっぱなしでこわごわと2人で下ったのを思い出します。碓氷峠を全速力で下ることができたなら、12時間台で日本横断はできたのではないか?と今でも信じています。
●学連のポイントレースで集団から単独の逃げを打つと、後ろから強豪、日大の選手が追撃をかけてきた..。私と彼の2人の逃げになったレース展開、相手はなにせエリート強豪集団の日大の選手、馬力が全然違います。2人で逃げているけれど、こっちは日大の後ろにつきいち、先頭を引くことなんてできるわけがありゃしない..。バンクの外からは日大のサポーターから野次が飛んでくる...。こらぁ〜後ろについてるだけで、おまえも先頭をひけぇ〜!!。そんなこといわれてもこっちは足がいっぱいで、引けるものなら引きたいよ〜!と心の中で叫びながら日大につきいちの私でした。
●学生時代、強豪日大の選手に勝つためにはどうすればいいのか?と真剣に考えていました。トレーニング仲間から、おい、日大の選手は年間2万キロ走ってるらしいぜ...という話を聞いた私は思いました。それならこっちも同じ距離を走れば強くなれるのではないか?年間2万キロ...自動車じゃないんですよ、いやはや、単純に12ヶ月で割ったとしても月約1600キロ、相当な距離です。それでも、一念発起して、その年の年末から春先にかけて、私は頑張って毎月2000キロを目標に走りました。結果、ポイントレースで日大の逃げに乗れるようになったし、個人追い抜きでも結構走れるようになりました。志は高く持ち、それを実行する勇気が大切だと切に思いました。
●大学に入学して、ゴルフ部か、軽音楽部か、サイクリング部にしようか迷った私ですが、もしもサイクリングを選択していなかったらゴルフ屋さんになっていたことは間違いないと思います。面倒くさがり屋なのに、やり始めると没頭してしまうという性格はサイクリング(特に自転車競技)を通してはぐくまれたものだとは思いますが、ゴルフをやっていたらやはり、それなりに没頭していたと思います。基本的に好きなこと=仕事となっていたとは思います。
●自転車でいろいろなところへ行った経験が有るせいか、距離感に対して謙虚さがないというか...。50キロくらいまでなら今でも自転車で生ける距離じゃん、と思ってしまいます。40を過ぎた今となっては50キロをバイクで走るのは結構きつかったりすることに気がつくのは、実際にバイクで走ってみてからという情けない事が多々有ります。

●学生時代に旅行部門で使用していたランドナーは今も実家の自分の部屋に置いてありますが、クイックレリーズではなく、ウィングナット(Huret)、変速機はSIMPLEXはデルリンのF&Rメカ、SEDISのチェーン、MAFACのカンチブレーキ、SORBIZのダイナモ&ライト道路に突き出た反射鏡に激突してアライメントが狂ったフロントフォークのTOEIランドナーフレーム...こんな自転車で北海道、四国それぞれフル装備で2000キロ、よくもまあ走り回ったものだと思います。
●1ヶ月のロングツーリングに出かけると、毎日飯を腹いっぱい食べても走り始めて約1週間で5キロも体重が落ちていた。完全な胃拡張状態、現役を引退した後も運動量は減っても胃袋は胃拡張のまま、今考えれば相当な量の食事をしていたと思う。そんな胃袋も今は普通サイズに戻り、ほぼ人並みの食事をしている今日この頃です。
●学生時代、自転車競技をやっていて、自分は性格的にレースには向いていない、と常々思っていました。マスドスタートのレースよりも個人追い抜きを最終的には得意種目としたのもそのせいで、他人との争いよりも、自分自身の鍛練、というものが自分自身、好きだったのかもしれません。現役時代にクラブのチームメイトに話したら、ポイントレースでダブルポイント取りに行くおまえが、そんなはずはないだろう..と笑われましたが..。
●ロードバイクで走ると平均心拍数は140位。千葉の誉田という所は千葉と九十九里浜の真ん中の町で丘陵地帯、アップダウンが多く、体重が少しばかり重めの私がちょっと頑張って坂を上ると心拍はあっというまに150を越えてしまう。九十九里側へ下ってしまえば延々と平坦路が続くが、かえって来るためには行きに下った坂道を上ってこなければならない。平坦路を気持ち良く走った後、もう一頑張りして丘の上の誉田町に帰ってこなければならないのがちょっとつらい。学生時代みたいに6〜7時間、マイペースでサイクリングしたいとも思うがそんな時間的余裕がないのが現実。学生時代から使っているトレーニングコースはもう、かれこれ20年以上も走り続けているが、田舎町なので景色はそれほど変わっていない。
●数年前、筑波の6時間耐久レースに参加した時は軽自動車のワンボックスに5人乗り、自転車5台積み込んで行った。学生時代にはルーフキャリアに自転車を載せてレースに行ったことがあったが、2回程、自転車を屋根の上に乗せているのを忘れてぶつけたことがあった。自転車の自動車への積載はやはり車内に積み込むのが一番安全だと思う。ロードギア系の車の後ろにキャリアを引っかけるタイプのものは実際に使ったことがあったが、引っかけたラックに自転車を載せて走るのはどうしても心配なものです。

●最近はサイクルコンピューターやら、心拍計など使わずにロードバイクで走るようにしています。日ごろから数字に管理されている現代社会、今日は何キロ走った?消費カロリーは?もううんざり..。ロードバイクに乗るときくらいは、気ままにのんびり走りたいと思う、今日この頃です。
●昔、ベルナールイノーが歌手のフリオ・イグレシアスに似ていると話題になった。最近ではリシャール・ビランクがイノーにそっくりだと思った。かのグレッグレモンはプロゴルファのフィル・ミケルソンに似ている。最近、サイクルスポーツをにぎわしている忌野清志郎はJリーグの野人、岡野選手にそっくりだ。市川雅敏は若いころの石森章太郎の息子、小野寺さん(俳優)に似ていると誰かが言っていた....。
●学生時代、旅行部門でツーリング合宿に出かけると、必ずといってランドナーで競り合いをしていたあの頃。北海道へ夏季合宿にいったときは荷物を約30キロ積載したフル装備のランドナーで先頭交代しながら激走していた僕たちは若かった....。自転車で旅行を楽しむよりも、見知らぬ彼の地を走ることだけに喜びを感じていました。旅行部門の在籍は1年だけでしたが、観光地巡りをした記憶よりも、どこどこの峠で誰それと競りあった、という記憶の方が...。
●大学の学園祭の綱引き大会で優勝した我がサイクリングクラブは優勝賞品としてカップヌードル1年分をゲット。私はクラブの倉庫に保管してあったそのカップヌードルを食べながら毎日自転車いじりをしていました。自転車に凝り始めると誰もが自転車いじりに没頭する時期があって、ある人はそのままメカおたくの道をつきすすみ、あるひとはメカいじりよりもバイクで走ることにより喜びを追い求めたりするものです。私の場合は後者です。
●学生時代、白地図を買ってきて自転車で走ったことが有る道を赤ペンで印をつけるのが趣味でした。房総半島の主要道路はほとんど真っ赤、ツーリングから帰ってきては白地図に赤い線をひくのが楽しみでした。

●自転車競技というスポーツはスタートする前から結果は有る程度解っているようなもの。野球やサッカーといった球技とは違い、体力重視のスポーツなので、たまたまラッキーで勝ってしまったということはあり得ないスポーツです。気合い一発!というわけにはいかないのです。レースへ向けてのトレーニング、調整段階で、次のレースではどれくらいの成績が出せるのか?有る程度想像がついてしまうというところが、悲しいと思うか、頑張れば良い成績を残せると思えるか...です、アマチュアレベルの場合は..。欧米のトッププロたちが繰り広げるプロロードレースは参加する選手全員のレベルが非常に高く、また、均衡しているので、勝ったものが強い、という理論が成り立ちます。
●Fメカ、Rメカはサンプレ、シフトレバーはサンツアー、ボスフリーはシマノ、チェーンはセデス、ブレーキレバーはダイアコンペ、ブレーキ本体はマファック、クランクは杉野、15年くらい前のバイクはこんなばらばらな組み合わせでもちゃんと各パーツが動いていました。互換性なんて気にせずに、好きなメーカーのものを組み合わせて使用することが出来ました。カンパニョーロ&シマノ混合のトランスミッションも可能でした。シマノのSISの登場で全ての状況は一変してしまったのです。
●自動車の免許を取得したのは、学生時代、レース会場へ走っていくのが嫌だったから。年末恒例のチームロードレース前日に東京から修禅寺までロードバイクで移動なんて考えられますか?。おまえなぁ〜、前の日に走り込んだほうがレース当日、足が回るんだぜ!とよく先輩に言われたものです。今では信じられない根性論。トラック競技の練習をするために東京は品川の高輪から、埼玉県の西武園競輪場まで2人乗りのタンデムレーサーを一人で輪行するのが嫌だったから免許を取ったのです。
●頑張った自分をいつも賛美してくれる仲間がいたから、あれだけ頑張れた..そう思うことが有ります。学生時代、消滅寸前、部員わずか2〜3人の自転車競技部門(旅行部門は約30人!)で頑張る自分たちを成績の如何を問わず、いつも旅行部門の仲間達がレース会場へ応援に来てくれた。レースの成績ではいつも負けていたけれど、応援では他のどのチームにも負けなかった...。人間、いつだって頑張る自分を応援してくれる誰かがいてこそ頑張れるものだと思います。
●Fメカ、Rメカはサンプレ、シフトレバーはサンツアー、ボスフリーはシマノ、チェーンはセデス、ブレーキレバーはダイアコンペ、ブレーキ本体はマファック、クランクは杉野、15年くらい前のバイクはこんなばらばらな組み合わせでもちゃんと各パーツが動いていました。互換性なんて気にせずに、好きなメーカーのものを組み合わせて使用することが出来ました。カンパニョーロ&シマノ混合のトランスミッションも可能でした。シマノのSISの登場で全ての状況は一変してしまったのです。

●学生時代の日記から〜。
●8月、北海道、礼文島、夜空には満点の星が....。夢見心地で日記をつけ、テントの中で淡い眠りにつく...。朝、水しずくが顔にぽたり、ぽたり、外は大雨、大慌てでテントを畳み、走り出す..。昨晩のあの満天の星は...?。
●インデュラインがツールで勝ち続けているとき、上り坂をドロップバーの下をもって立ちこぎしてゆくのを見て、信じられないと思った。そんなのバイク初心者がやることじゃん。登りの立ちこぎはブラケットでしょう?。その後、パンターニが、ウルリッヒが、そのスタイルを継承しているのを見て、常識は覆されるものだと思った。
●3月、四国、観音寺、琴弾公園、テントを張って連泊、朝、おきてみるとテントの外から何やら人の声が...、テントの中から外を覗いてみると地元の老人会?の朝のラジオ体操が始まろうとしていました。ラジオ体操が終わるまで、私はテントの中で寝たふりをしていました。
●今から20年ほど昔の話。当時、学連のポイントレースではレースごとにルールが違っていました。いわゆるポイント取得に関するルール。今考えれば全くもってばかげたことなのだけれど、単独で逃げている選手にポイントを与えるか否か?で毎回ルールが違っていました。要するに、一人の選手が単独で逃げ続けると、後続に取り残された集団はトップ通過ポイントがとれなくなってしまうので、先頭に逃げている選手にはポイントを与えず、ポイントはあくまでも集団に対して与えるという変なルール。それじゃあ、逃げている選手はどうすればいいの?ということになりますが、逃げている選手は単独で集団を周回遅れにしないかぎり、後続の集団に対して何のアドバンテージをとることが出来ないという変なルールでした。いつもレース前に出場選手全員が一ヶ所に集められ、協議委員から本日のポイントレースのルールの説明、なるものが行われていました。え〜、今日のルールは先頭を逃げている選手にポイントは与えません、あくまで、集団でポイントラインを通過した際に、トップでポイントラインを通過した選手に対してポイントを与えます...といった具合。こんなルールでレースが活性化するはず無いでしょ?。単純明快にポイントラインを先頭で通過した選手にポイントを与えるというのが基本だと思います。今の学連のポイントレースのルールがどのようになっているかは知りませんが....。

●大学のサイクリングクラブは当初、旅行部門に所属していましたが、崩壊寸前(部員2人)のレース部門に健脚?を期待されて移籍、何だかよく解らずとりあえず毎日20キロほどのロード練習、レースには出るものの、日大、法政、中央といった強豪校の選手には全く歯が立たず、まあ、こんなものだろうとあきらめ半分でレース活動をしていた私でしたが、他の弱小校(農工大、明大、新潟大、国学院、農大)との合同合宿に参加したことでそれまでの思いは一変に吹き飛びました。弱小校ながら強豪校を打破しようと必死こいて練習しているレースマン達の姿を見るに着け、私もそうなりたいとの一年で一日のロード練習は100キロから160キロに、大学ではローラー台1時間もがき、学連レースでの優勝をただひたすら夢見て日々、練習に励んでいた私でした。学生時代ののひた向きさと情熱は、その後、仕事における自転車への情熱と変り、気がついたら自転車店の店主になってしまったわけです。
●8月、北海道、オホーツク海、浜頓別、ジャージにTシャツで走っていた私たちはあまりの海の青さに引かれ、フル装備のランドナーを止めてそのままの姿で海へ飛び込んでゆきました。思ったより冷たい水でしたが、心地よい水泳を楽しみ、その後、再び濡れたTシャツとジャージのままで自転車で走りだしました。青い空、青い海、どこまでも続くまっすぐな道、楽しい思い出です。
●学生時代、サイクリングクラブの倉庫の前で自転車いじりをするのが私の日課でした。1年生の時はクラブのメカニック担当の先輩と一緒に自転車をばらしては組み立て、自転車のしくみを学んだものです。倉庫の隣には大学の応援団の部室があり、いつも新入生が先輩にしごかれていました。明治学院大学〜〜応援歌〜一番〜歌いまぁ〜す!。それ!。援団は大変だなぁ〜といつも思いながら自転車いじりをしていました。
●私のバイクのペダリングスタイルはサドル後部にどっしりと腰かけ、シッティングで坂を上るときはハンドルを引くのではなく、押し付ける様な感じでペダリングします。誰に教わったわけでもなく、その方が力の入ったペダリングが出来るのです。有るとき、雑誌に出ていたかつてのフランスの英雄、ベルナール・イノーのインタビューを読んでいて、同じような事をかいてあったのを見て、私はもしかして天才?と思ったものです。それでもレースで良い成績が残せなかったのはやっぱりどこかが違っていたのでしょう。
●私が自転車に乗れるようになったのは小学生高学年、それまでは補助輪付の自転車に乗っていました。子供の頃の私は運動神経は良いほうではなく、たしか22インチ位の自転車にいつまでも補助輪を着けて走っていたような気がします。いつもおやじに後を押さえてもらって補助輪無しの自転車に乗る練習をした思い出が...。引っ込み思案で気の弱かった私はなかなか自転車乗りをマスターすることが出来ませんでした。最近の子供たちは運動神経が良いのか、幼稚園児でも16インチくらいの自転車で補助輪無しですいすい走っているのを見るとすごいなぁ〜と思ってしまいます。

●20歳の頃、43歳になった現在のメンタリティーがあればレーサーとしてもっと活躍できただろうに...と思うことが有ります。トレーニングに対する取り組み方、レースでのタクティクス、いろいろと思うことが有ります。未だ人生経験が浅かったあの頃..、現在のメンタリティーが有ればレースだけでなく、他のもろもろのことでももっと上手く立ち回れたのに...と思うのです。
●レースで一番緊張したのは群馬県赤城国体の団体追い抜き、スタート前、心臓ドキドキ、気持ち悪くなるくらい。スタートダッシュの苦手は私はスタートでおいていかれたらどうしよう、そればっかり考えていました。上手くスタート出来た私は自分よりも実力が上の他の2人に必死で食らいついてゆき、先頭に出れば必死で引きまくりました。途中、前走者の後輪に前輪をハスりましたが、気合いで建て直し、ゴール。4分45秒とタイムは平凡ながらも、私のレース経験の中で唯一、自分の限界を超えて走ったレースだったと思います。
●8月、北海道、礼文島、海岸線、打ち上げられた昆布、はて、この昆布と海水を使ってみそ汁&ご飯を作ったらどうなるのか?思い立った私は実行に移しましたが、昆布のみそ汁はぬるぬる、ご飯は塩辛くって食べられたもんじゃありませんでした。
●8月、北海道、陸別、公園でテントを張っていると地元の小学生が声を掛けてきて友達になりました。おにいちゃん、ここにいつまで居るの?今夜はここで寝て、明日の朝、また出発さ..。じゃあ、明日の朝、早く来れば会えるね!。と約束を交わして分かれました。夕方、その子の母親が差し入れをもって来てくれました。大変ですね、頑張ってください。ありがとうございます。次の日の朝、日の出とともに目が覚めてしまった私は予定を繰り上げて早朝に陸別を出発、その子供との約束を守ることが出来ませんでした。15年たった今、その子はがっかりしただろうなぁ〜、と後悔したりしています。ごめんなさい。
●現役時代、私の得意種目は個人追い抜き。1000m、2000m、3000mと均一なラップタイムを刻む私の走りはまるでマシンの様(レベルは低いけど)と言われたものです。均一ラップタイムを刻むためにはアシスタントが必須です。バックかホームで誰かにタイム計測をしてもらい、自分のラップタイムを聞きながら走ることが必要です。学生時代は後輩達にこのアシスタント役をさせていたのですが、社会人となって実業団で個人追い抜きに出場したとき、アシスタント役を見つけることが出来なかった私のラップタイムはばらばら、ゴールタイムも散々なものでした。

●8月、北海道、小樽。その年の8月は台風の上陸で記録的な大雨を記録していました。私が小樽に到着した次の日、大型台風が小樽を直撃、大雨となりました。私は小樽市民会館のロビー前の外の踊り場で台風をしのごうとテントを張る準備をしていたら、市民会館の管理人の人が中から出てきて、あんた、そんなところに居たら吹き飛ばされてしまうよ、中に入りなさい..。その夜は小樽市民会館のロビーで台風をやり過ごしたのでした。ツーリングをしているといろいろな人からの心遣いを賜り、感謝感謝の毎日でした。
●1990年秋、私は宇都宮にいました。世界選手権自転車競技大会最終日、プロロードレース前日、アメリカチームが滞在するホテルへアルミフロントフォークを持ち込み、グレッグレモンは未だ、来てないの?今日午後、ヘリでやって来るらしいよ..。憧れのグレッグに会うことが出来ず、残念。その後、日本チームが滞在するホテルへ行き、市川雅敏と再会、これからコースの下見に行くんだけど一緒に行かない?すんません、これからベルギーチームの滞在するホテルへ行かなければならないんです...。再び宇都宮市内に戻り、ベルギーチームが滞在するホテルでミッシェルバルタンと再会、たまたまエディ・メルクスが...。ヘイ!ミッシェル!何やってるんだ?エディ、紹介するよ、私のスポンサー、栄輪業のミスター・テジマ。エディ・メルクスと名刺交換&握手!。その夜、なぜか一端東京まで東京の自宅へ帰り、翌日、プロロードスタート前に再び宇都宮へ...。レーススタート時には古賀志山の山腹で集団が来るのを待ちかまえているのでした...。日本で開催された世界選手権自転車競技大会、あの2週間の間、私は東京と群馬(トラック競技会場)、宇都宮(ロード競技会場)を我が愛車、軽自動車のホンダ・トゥデイ、で毎日行ったり来たりしていました?元気だったなぁ〜あの頃。そういえばあの世界選、アマチュアロードにアームストロングが出ていたのを知っていますか?。
●本年のツール・ド・フランス。個人的には山岳でのシモーニとアームストロングの対決が楽しみです。アームストロングが勝ち続けてきたこの4年、冷静に振り返ってみると、山岳で対抗しうる強力なクライマーが居なかった様に思えます。確かに、ラルプデュエズでのパンターニとの戦いは有りましたが、あの時はパンターニは本調子では有りませんでしたし、それくらいじゃないでしょうか?本格的な超一流の山岳クライマーとの対決は?山岳で確かにアームストロングは強いです、でもアルプデュエズでの最速スプリットタイムは未だ絶頂期のパンターニに及んではいないらしいです。果たしてアームストロングが早いのか?他が遅いのか?くるくる回るあのケイデンスについつい惑わされてしまいがちですが、どうなんでしょうかねぇ〜。ここ数年、ドーピングやら何やらで有力選手がなかなかツールに参加できなかった事も有りましたし、なんだかすっきりしないのは私だけでしょうか?本年、1年ぶりに帰ってきたウルリッヒにも期待したいのですが、今まで散々アームストロングにやられていますし、既に彼は終りが近い?ような気がしないでもありません。フィニョンしかり、若くしてツールで勝ってしまうとやはりツールの連覇というのは難しいのかもしれません。
●学生時代、社会人と自転車競技をしていましたが、実のところ、私自信、人と競うことはあまり好きではなく、サイクリングクラブのツーリング部門からレース部門へ移ったときには、これはまいった..。と思ったものです。しかしながら、私が大学で所属していたサイクリングクラブは体育会ではなく、愛好会(同好会?)という形態だったので、封建的なしごきや強制的なトレーニングと言ったものが全くなく、全て個人の自主性に任せられていたので続けることが出来たのだと思います。(体育会系のしごきは高校時代の野球部で経験済みで、もうこりごりと言った感じでした。)2年生になって本腰を入れてレース活動に取り組んでいたときも、自分でトレーニング計画を立てて、だれからの強制を受けることもなく、マイペースでトレーニングをしていました。このマイペースのトレーニングが、ややもすると練習のための練習となってしまい、今一つ、レースでは良い成績を残すことが出来なかったのだと自己分析をしています。自分にはマイペース、一人でのんびりとサイクリングするのが一番合っているような気がします。
●一番好きなプロレーサーは誰?私は..やはりグレッグレモンです。ツール・ド・フランスの最終日の個人TTで総合トップのフィニョンとの約50秒のタイム差をたった20数キロの個人TTでひっくり返してツール史上最小のタイム差、8秒で劇的な逆転優勝は20年間、ツールを見続けてきた私の中で一番の思い出です。10年以上たった今でも、あの時の個人TTの平均速度は未だ破られていません。グレッグレモン、猟銃の怪我さえなければ、ツール5勝は出来たのに..と思うのは私だけでしょうか?。

●学生時代、私の得意種目はポイントレースで、トレーニングはローラー台(3本)でトラックバイクに乗り、1分もがいて30秒休み、これを1時間続けるというものでした。スタミナをつけるために冬場の走り込みは一日6〜7時間、千葉の自宅から品川の大学まで、片道3時間をロードバイクで通学していました。自転車の乗り過ぎで私の歩幅は340ミリ(170 x 2(クランクの長さ))になっていたのを思い出します。バイクトレーニングの後は腹筋60回、腕立て20回が必須でした。足だけでなく、上半身(体幹)も有る程度トレーニングしたほうが良いと思います。ロードレースは好きでしたが身体が重い(骨?筋肉のつきすぎ?)なので坂が上れないのが私の欠点でした。レースマンの皆さま、くれぐれも練習のための練習にならないように、レースのための練習をしてください。
●本年のJスカイスポーツのジロ・デ・イタリアの録画放送は結構力が入っていました。市川雅敏、白戸太郎を現地へ送り込み、特別番組まで特別編集する力の入れよう..。エルネスト・コルナゴや、デローザの工場へ直接出向き、彼らのインタビューまで取材しているのにはちょっとびっくり。コルナゴの自動車は1tの重量の車体で時速100キロのスピードを出すけれど、バイクは数キロで時速90キロのスピードを出す乗り物、自動車とは比べ物にならない繊細さが要求される機材だということを理解して欲しい..というコメントが印象的でした。ツール・ド・フランスの生中継が楽しみですが、解説陣はもう少し何とかして欲しいと思います。果たしてアームストロングはツール5勝クラブ?に加わることが出来るのか?。
●5月5日からUCI規則でプロレーサーもヘルメット装着必須という事になったそうで、本年のジロ・デ・イタリアでは早速そのルールが適用され、全選手、ヘルメット装着で走っているような状況です。ステージが登りゴール5キロの場合はヘルメットを脱ぐことが出来るらしいが、困ったのはパンターニのスキンヘッドが見られなくなったこと?何だか誰が誰だか良くわからなくなってしまったこと?。知ってます?昔プロの競輪レーサーが被っていたヘルメットは重量が約1キロもあり、長時間練習していたら首が筋肉痛になったりしたものです。ロード練習でヘルメットを被らなかった私はレース本番(トラック競技ポイントレース50キロ)を走ると首が疲れてくるのが悩みでした。
●自転車競技は素晴らしいスポーツだと思います。練習の成果が一番出るスポーツなんじゃないですか?。練習すればしただけ強くなれるし、しなかったらすぐに力は落ちるし..。学生時代、私は3日ロード練習をしないと足が落ちたんじゃないかと心配したものです。運動神経系のスポーツというよりは体力全て、みたいなところが有りますからね。私が自転車競技を始めたころ、まあ、それなりにレースで走ればいいや..といういい加減な気持ちでやっていましたが、あるとき、他の大学と合同合宿をしたときに、当時の大学レース界を牛耳っていた日大、法制、中央という強豪大学を倒そうと本気になって一生懸命練習する弱小校のレースマン達との出会いが私のレース感を180度変えてしまったのです。レースに出るからには勝つ!。ただ勝つためにひたすら練習有るのみ!。完走するために走るのではなく、入賞するために走るのではなく、優勝するために走る!。そんな高い志を胸に日々、練習に励む私でした。(優勝できたのはたったの2回だったけれど..)
●日本のプロ・ロードレースマンが初めて誕生したころ、それはそれは、もう、興奮の日々でした。市川、鉄沢がヨーロッパに挑戦するらしいぜ!高橋松吉と森幸春がクアーズクラシックで??位で完走したらしいぜ!松吉さんがロサンゼルスオリンピックで16位?(良く覚えていない)完走したらしいぜ!日本で世界選手権が開催されるって本当?森幸春が、高橋松吉が、三浦恭資が、市川雅敏が....!市川雅敏がスイスのアマチュアレース界で大活躍してプロチームにスカウトされた!と聞いたときは、日本人だってヨーロッパで走れるんだ!ツールにも出れる!と興奮したものです。学連のトラックレースでは個人追い抜きの白枝?(中央)、猿館(日大)、スプリントの薙野(中央)、坂本(日大)強かったですねぇ〜。学連の常勝校、日大、法制、中央に向こうを張って本気でまっこう勝負を挑んでいた私...(弱小校の私は彼らは気にも留めてはいないような存在だったかもしれないが、こっちは本気だった。)あの時の情熱はいつまでも忘れずにいたい。

●ロードレーサーで最高何キロくらいまでスピードを出したことが有りますか?私の場合は時速90キロと言ったところでしょうか。千葉県の鹿野山という標高300メートルくらいの小高い山が有りますが、そこの下りで一直線で急降下するコースが有りまして、そこで出したことが有ります。富士山の下り坂、新五合目から御殿場方面に降りてくるあの直線の下り坂でも結構スピードが出ていたと思いますが、その時はサイクルコンピューターを付けていなかったような気がします。
●サイクリストたるもの、自分の自転車は自分でメンテナンスするのが基本です。一人でツーリングに出かけても最低限タイヤ交換やパンク修理位は自分でできないとね。このことを大学のサークルの先輩から聞いた私は自分のランドナーをばらばらにして組み立てる、というトレーニング?をよくしたものです。これが結構勉強になるもので、自転車の各パーツのしくみを知ることが出来ます。しかし、分解するのは簡単、再び組み立てるのには四苦八苦、どうにもならずに先輩に電話で3時間ご指導を賜ったなんて事も有りました...
●私のサイクリング経験で一番の激坂体験というと...。埼玉県の顔振峠、かな?。初めてロードバイクで行ったときはさすがに登ることが出来ませんでした。正確な勾配は覚えていないけれど、ランドナーで登のがやっと、ロードバイクではインナーロー(当時はフロント42T、リア28Tというのがもっとも軽いギアセッティング)で止まりそうになっていました。当時(20年前)サイクリストの健脚自慢の名所だった富士山河口湖スバルラインの登りは1時間30分掛けて登り、下りは30分でした。
●自転車に乗っているときに何を考えているのかって?。私の場合、仕事の事、世の中のこと、街行く人はこれからどこへ行くの?等々..どうでも良いことばかり考えています。時々、仕事に関するなかなか良いアイデアなんか思いついたりするものです。あんまり考え込むと危険ですが、この、物思いにふけりながら走るというのが私の場合結構快感だったりします。私にとってサイクリングは沈思黙考のスポーツなのです。仲間とわいわい走るのも楽しいですが、一人、孤独に物思いにふけって走るのも、また良いものですよ。

●自転車にロングツーリングに出かけたら、日記をつける事をお奨めいたします。後日、読み返してみると楽しい思い出がよみがえります。私も学生時代、北海道と四国に約1ケ月づづロングツーリングを体験しましたが、その時の日記が大学ノートで各1冊づづ、今、読み返してみるとなかなか面白いものです。今日はどこからどこまで走ったとか、今日はどんなことを考えながら走ったとか...。お奨めです。
●サイクルスポーツに運動神経はいらない、という話を聞いたことが有ります。私の場合、野球、剣道、サッカー、水泳、ラグビー、バレー、バスケット、ゴルフ、等々、いろいろとスポーツをしてきましたが、一番性に合うのが自転車なのではないかと思います。それでもペダリングスキル(いかに効率良くペダリングするか?)という技術も必要なわけですし、ロードレースやトラックレースにおいては戦術や駆け引きも有るので、ある程度の運動神経?らしきものは必要なのではないでしょうか?欧州ではサッカーの次に人気の有るのがサイクルスポーツだ!という話を良く聞きますが、サッカー選手になれなかった人がサイクルスポーツに落ちてくるのかなぁ〜?と思ったりしたことも有りました。
●学生時代、千葉市の自宅から東京は品川の大学まで自転車通学した時の事。途中の本八幡近辺でパンク、未だサイクリング初心者であった私は、パンク修理セットを持ってはいたものの、パッチを貼る前処理で使う紙やすりが入っていませんでした。紙やすりでチューブをこすらずにパッチを貼ろうと何度も試みましたが、結局駄目で、その日の登校は断念、本八幡駅まで自転車を引きずり、輪行をして帰ってきました。今思えば、ガラスの破片か何かでチューブにキズを付ければパッチを貼ることが出来たのに..と思います。大学へはその後、レースに出るようになってから片道50キロを毎日練習がてら毎日走っていました。途中、高速道路(京葉道路江戸川橋〜市川インター)を自転車で走ったり、銀座の繁華街(銀座通り)を走ったり、あの頃は自転車でどこへでも行ける様な気がしていました。
●大学のサイクリング愛好会でツーリング部門に所属したのは1年だけでしたが、一番楽しかった思い出は初めての長距離ツーリング、北海道でした。期間は8月末から9月末までの約1ケ月、走行距離約2000キロ、函館〜長万部〜小樽〜礼文島〜稚内〜浜頓別〜士別〜旭川〜富良野〜帯広〜釧路〜弟子屈〜帯広〜襟裳岬手前〜帯広〜日勝峠〜日高町〜門別〜苫小牧〜札幌。有り余る時間を持て余していたあの頃、雄大な北海道を自転車で走るのは最高に気分が良かった。宿泊はほとんどがテント、ランドナーで前後左右のフル装備、荷物だけで約30キロを積載してのツーリング。初めてのフル装備で左右均等に荷物を入れなかったためにペダリングするたびにフレームが左右にたわんで驚いたり、駅に寝泊まりしたり、小樽〜礼文島のフェリーで夜中に突然、寝言で大声で叫んで乗客乗員全員をたたき起こしたり、オホーツク海沿いの浜頓別の砂浜であまりの海の美しさに着の身着のまま海に飛び込んで、そのままランドナーで走りながら服を乾かしたり、士別では初めてハンガーノックを経験したり、釧路の手前で走行中に左手を前輪とスポークの間に巻き込まれて大けがしたり、幕別のスポーツセンターの資材置き場に寝泊まりしたり、更別で熊が危険と言われて物置小屋のバス停に寝泊まりしたり、念願だった襟裳岬にたどり着くことが出来ずに黄金道路途中で引き返してきたり、日勝峠の下りでパンクしてスペアタイヤのスチールビードが変形していたために走っているうちにチューブがはみ出してきて大困りしたり、札幌の町の大きさに感動したりと、ハプニング続出の1ケ月でした。あんな経験、2度と出来ないと思う...。

●1990年、宇都宮で開催された世界選手権プロロード選手権前日、私は日本選手団(プロ)の宿舎に市川雅敏選手を尋ねていました。当時、私が勤務していた栄輪業が彼とスポンサー契約をしており、私がその担当でした。市川氏との再会を果たした私は、翌日の大会で使用するロードバイク(LOOKカーボン)のLOOKのロゴを全て黒いマスキングテープで覆い隠し、その上からSAKAE LITAGEのロゴステッカーをべたべたと貼り付けたのでした。作業中、当時サイクルスポーツの藤下氏がやって来て、フレームにメーカー名を入れるのは良いけれど、パンツにスポンサーロゴを入れると罰金だよ、と言っていたのを思い出します。市川選手は翌日の大会では罰金を払って所属するチームのスポンサーロゴ、FRANK-TOYOの青いパンツを履いていました。
●トラック競技でタンデムと言う種目が有ります。2人乗りのトラックレーサーでスプリント、タイムトライアルを競う競技です。私はタンデムスプリントの経験がありますが、2人乗りなのでスプリントを掛けるとものすごいスピードが出ます。練習は西武園の500mバンクだったのでそれほどではなかったのですが、本番の試合はカントのきつい333mの伊藤競輪、ゴール前の最終コーナーではものすごい角度で自転車が傾き、ハンドルを握る両腕には相当な力がかかります。タンデムスプリントのすぐあとに出場した個人のポイントレースでは自分の身体がめちゃくちゃ軽く感じたのを覚えています。タンデムスプリントの場合、個人のスプリント競技とは違い、最終コーナーで相手を交わすことはほぼ不可能で、勝負は最終ラップのバックストレッチで着いてしまいます。スプリントを掛けるときの2人のタイミングはかなり難しく、私たちのチームは2人で、せ〜の!と声を掛け合ってスプリントを掛けていました。
●自転車のツーリングで私は2度だけ涙を流したことが有ります。
場所は四国、剣山は見ノ越峠と黒尊スーパー林道です。季節は春先、南国四国でも未だ雪の残る2月の事でした。
なぜ、そんなに苦しい道を選択したかって?それはそこに峠が有ったからです。
●私の自転車経験の中で、最長走行距離は約310キロ、直江津から東京までの耐久ランでした。直江津を夕方にスタートして東京に到着したのは明け方、明治学院大学のサイクリングクラブのイベントとして毎年行われていたこのイベントですが、スタートしてからゴールまでに要した時間は約13時間、決して速いタイムとは言えませんが、当時、ロード練習で1日に160キロを走り込んでいたので、その2倍の距離を走るだけで良かったので?それほどつらいことではなかったような気がします。途中、軽井沢で30分ほど休憩した以外は走りっぱなし、お腹が空けばセブンイレブンでカロリーメイトとコーラを買って食料補給していました。当時(1983年ごろ)の碓氷峠の下りは真っ暗で、亡霊が出るという噂がクラブ内であり、とても怖くて一人では下ることが出来ず、後輩と一緒に下ったことを思い出します。その後、大阪から山口県の山口駅まで約500キロを一晩で走破する計画を立てて実行をしたことが有りましたが、一緒に走った後輩が福山でダウン、計画は淡くもとん挫したことが有りました。
●大学生のある年、元旦の初日の出を犬吠埼で見ようと思い立ちました。もちろん自転車で見に行くのです。大晦日、紅白歌合戦を見終わってから千葉の実家をスタート。初詣の車で渋滞する国道51号線をひた走り、成田山に到着、人込みで混雑する中、初詣で、今度は犬吠埼をめざします。夜中、千葉の県道は真っ暗、ランドナーのフロントバッグに入れたカセットテープの音楽を聴きながら、ひた走りました。銚子付近では近隣から来たのか、買い物自転車や、ジュニアスポーツ車で走る少年たちを軽々と追い越して犬吠埼に到着、夜明けを待ちます。あいにく初日の出を拝むことは出来ませんでしたが、気分は達成感で一杯でした。大学時代の私はただひたすらにこの達成感を味わうために自転車で走り続けたような気がします。
帰りは九十九里浜沿いに平坦路を東金へ、そして約100メートルの丘を越えて千葉市の実家に戻ってきました。九十九里浜沿いの道路は平坦&単調な道が続くので、徹夜明けで走っていた私は居眠り走行をしていたような気がします。家に帰ってきたのは昼前、元旦早々約160キロをランドナーで走りきったのでした。初日の出ランでは他にも埼玉県の正丸峠に自転車で出かけた事が有りましたが、その時は途中セブンイレブンでボトルに入れたお湯が、走っているうちに寒さでシャーベット状態になったのを思い出します。
●私のバイクライドはいつも安全第一で、自転車歴20年程ですが、いまだかつて、骨折はもちろん、大きな怪我をしたことが有りません。レースマンであれば鎖骨の1本や2本、骨折するのが当たり前、といわれていますが、そこが私が一流のレースマンとして活躍できなかった原因かも知れません。
●そんな私の自転車歴の中で、一番の大けがといえば、大学1年生、夏、北海道ツーリングでのことでした。場所は釧路近郊、バイクはランドナー、前後サイドバッグを搭載したフル装備で走行中の出来事でした。フロントの日東キャンピーに装着したオーストリッチのフロントサイドバッグのキャリア取り付け革バンドがスポークにかんかん当たっているのに気がついた私は、何を思ったのか走りながらこれを直そうとしたのです。右手でハンドルを握ったまま左手で革バンドがスポークに当たっているのを直そうとしたその瞬間、何と左手は前輪のスポークとフロントフォークの間に挟まってしまったのです。痛っ〜〜〜!。それでも私はバイクから転げ落ちることなく、いたいのを我慢しながら右手でブレーキをかけ、自転車を止めました。これが本当のハンドブレーキ?などと冗談を言っているような余裕は有りませんでした。左手は熊の手の様に腫れ上がり、とてもハンドルを握れるような状況では有りませんでした。幸い、釧路に中学生時代の友人が住んでいたので、車で助けに来てもらった次第です。その後、友人の家で約1週間休養させてもらい、私は再び北海道ツーリングを続け、約1000キロを走破して無事に札幌にたどり着いたのでした。今でも私の左手の甲にはその時の傷跡が残っています。
